人生は哲学だ~凡人の生き様日記~

啓蒙思想家に憧れ。理想は新渡戸稲造。 レオナルド・ダ・ヴィンチよりも多趣味だと思いたい。学問的、哲学的、時にアニメとか映画、んで個人的な雑記で、理想は酒でも呑みながらある種の娯楽として楽しめるものになればといいな的ブログ

本はとにかく短篇集がいい!【幻想文学に浸る】

僕の中で文学は最も短篇集で生きてきたと言っても過言ではないだろうと思います。

学校の朝読書で、読む気もないのに読まなきゃいけなくて、本が当時嫌いだった僕にとってこの時間は本当に辛かった。

(読まないと怒られる。意味がわからん。)

そう思ってました。

今思えば、朝読書の時間と、無理矢理読まそうとした先生には感謝しなければならない。

少なくとも、その時の無理やりがきっかけになったのかもしれない。

学校は無意識に訴えかけるのであった。
そして学校は之をねらいとするべきでもあるな。と思わざるを得ない。


要はハリー・ポッターなんて僕には読めないですからねぇ。
昔から長い小説なんて読めやしないのだからハリー・ポッターなんて僕には猫に小判。
てか、あれ漬物石になるやろ。と

中学時代は教室にある本を適当にとって読んだふりしてたので、あまり読んでなかったのが多いです。

そとそも短篇集でも読んでみるかとなったのが高校生の頃。
親から昼飯代を毎日もらってたけどほとんど食べずにブックオフのCDと本屋で音楽雑誌など買ってた。いやぁ懐かしい。

その高校でも朝読書があったから、なんとかあの暇な時間をうまく過ごす方法はなかろうかと思ってた矢先。そもそも僕は飽きっぽい人間だと自覚していたから、そうか。短篇集ならいける。しかも一冊でいくつもの話があるのは得じゃないか。ということで星新一をたまたま触ったのがきっかけ。

実は、星新一のドラマを夜中に見てたのが本当のきっかけ。
特番だったかな、NHKでやってたのを見てた。

一瞬で惚れた。

お陰で短篇集マニアになって、日本で言うなら幻想文学という位置づけに近い作品を自然と読み漁っていた。

幻想文学の枠組みは人それぞれで、ちゃんとした定義はないのだが、星新一はSFに近い。
でも、僕の中では幻想文学

ここで僕の幻想文学の言葉の定義をしたい。
○睡眠時に見る夢の内容のようである
○比較的短い話である
シュルレアリスムの体型に近い内容である
○登場人物が極力匿名である(既出なものを除く)

ざっとこのような感じ。
【夢を見ているものに近い感覚】を感じるものが僕の中での幻想文学の位置づけになる。

異論は認めん。

登場人物が基本的に匿名っていうのも重要なのかなと思います。
夢を見るときは基本自分が夢の主人公であるかと思いますけどね、幻想文学に於いてこれは 必ずしも位置づけしないほうが良い。ということであります。
ほかに、登場人物には神様、仏様など、歴史上の人物を
モチーフにしたものがある(芥川龍之介、蜘蛛の糸の釈迦など)場合もその限りでない。

幻想文学の中にはあるファンタジー要素もSF要素も、そして基本的な文学には固有名詞を持つ。
主人公に名前があって、時の流れもたしかにある。

しかし僕の幻想文学の位置づけにはそれをあまり許容しない。
とは言ったもののものには何でも例外がつきものである。
その辺の緩さは許してくだせぇ。

星新一ならばお馴染みのN氏、F氏などは必ずしも固定でなく、読者に委ねられる。つまり主人公においては固有名詞はなく、匿名性を持つ。

そして、短篇であること。これ、大事。
人間が夢を見た時の感覚に近い。
それでいて断片的で長くないこと。

最後はシュルレアリスムの体型に近いというのは半ば言い訳みたいなもので、極力現実的でありながら何か別のものが混ざってくるようなもの。
言うなれば【記憶の混沌】のようなものであるといえばわかりやすいだろうか。

体系的には人間が夢を見るプロセスに近い。
【現実的でありながら、短く、断片的で、記憶の混沌による、ある事象とある事象とが混ざり合って現在過去未来が混同している様】

これが僕の中にある幻想文学の定義です。

話が長くなりましたけど、だから星新一はSFだけど幻想文学です。僕の中ではね。

さて、どうせなので星新一の話の中で好きな話を一個だけ挙げようかなと思います。

【鍵】
↑これです。
ひょんなことから鍵を拾う男。
一風変わった鍵で一体なんの鍵穴なのか気になってしまって、様々なところの入りそうな鍵穴を見つけては回すが手応えがなく―

といった話です。
結末は新潮文庫の「妄想銀行」にあります。
ほかに「古風な愛」も良い。
ぜひ、読んでみてくださいな。

おすすめだらけ過ぎておすすめできん。
てのが本音。
短いからこそ記憶に残る。
これが醍醐味。


幻想文学の、定義にややそぐわないかもしれないが、僕はエドガー・アラン・ポーの「黒猫」をおすすめしたい。

現実か非現実かの区別が曖昧な感じで、恐ろしくも奇妙でどこか爽快な黒猫と男のトラジェディです。

エドガー・アラン・ポーもこういうの書くんだなーと思って感動。
長い話は伏線を張って、時間をかけて結末まで持っていくことができるけど、短篇って、そういうのが高度になるだろうと思いますけど、ちゃんとオチを持つのは非常に天晴。

短篇はこれだからやめられん。

夏目漱石の「夢十夜
これは僕の根底にある幻想文学の始まり。
星新一よりも前、中学時代に惚れた作品。
もともと幻想文学を好む傾向はこの時からあったようです。国語の教科書を何回も読んでました。

星新一を買って、読んでから短篇に火がつき、本として、夢十夜を購入しました。

うん。
なんだかんだこれが一番好き。
一夜が一番好き。
で三夜も同じくらいこれまたスゴイっす。
当時の日本の言葉の素晴らしさに改めて圧巻。
三夜は恐ろしいながら心に訴えかけるものがあってすごい。

あと運慶がでてくる話もすごい。
何夜だったかね。
文学の良い所って、読み手の自由な解釈も許されながらも、著者の皮肉など風刺もあり、、、いやぁーすごい。夏目漱石先生。


芥川龍之介の「蜘蛛の糸」
これは幻想文学なのか?←
僕はこれも一応その手の中に入れられるかもしれない。

この話もまたいい。
有名なので知らない人は少ないはず。
国語にも載ってるよね。
でもこれにハマったのは少しあと。
短篇を探しているうちに思い出して読んだら案の定面白い。でもちろん幻想文学コレクションとして購入。

やっぱ王道の作家の文体には我々に刺さるものを持っています。
短編からでも十分伝わります。
否、短篇故。か。


すこし長い作品で、例外もありますが、カフカの「変身」もやはり外せん。
(僕はフランス語版もある; La Métamorphose)

できるなら文学はまず原本で読みたいのが本音。
カフカはドイツだが僕は読めん!
もちろん名訳もありますからできるなら何種類も笑

幻想文学は作品の特徴故解釈に人の個性が大きくでるかと思います。多くの人の個人個人による考察、解釈があればあるほど「古典化」すると言いますか。短編で作品数も多い故いわば無限の解釈が許されるのである。
まとめれば何百倍も楽しめる素晴らしいジャンルになるわけです。

できるなら文学部に幻想文学をまとめたものを作りたい。

防衛装備庁発足について〜情報に人任せな国民

そもそもだが僕はいつからかメディアの発言や流行についてはそれなりに敏感に反応しなくなっていたと思う。

なにせ、ひと昔と違って専門家なのかよくわからない不明瞭な、と言うか、匿名のネットのライターさんが増えているから、きっとその人たちはそれなりに話題集めの手段としてエゴが、つまり個性を出そうとしていくだろうと相場が決まってると予想するから、慎重に反応してるつもり。
どうしても人を集めようとする書き方になるだろうからね。
でも、内容は新聞よりも詰めの甘いものになるだろうなとも思います。


ネタによっては娯楽で済むのもある。
僕だって見るし、とりわけ楽しい。
でも、モノによっては正確な記述をしなければいけないのではないかなと、
また、見る人は見る人なりにSNSで発言する前に、もう少し自分で冷静に考えて書くべきだと思う。
すぐに広がって勘違いを生むし、
誤った解釈が時に悪い方向に向かう恐れがあるからです。

そう思うきっかけはある記事を見て思った。
それが今回の記事の主題になりまする。

安保法案が可決になったのはまさに昨日今日の出来事。
その後ろから影に隠れてたものが出てきてそれがネットで話題になったようで、その記事の書き方が、どうも何も知らなかったです。みたいな空気を出していて、それを見る人も勘違いをしてしまうのではないだろうか。
当然この内容にもすぐにSNSでは反響がある。

「着々と」
「裏で進めてた」
「耳を疑った」など。


その隠れていたものとは何かというと
「防衛装備庁の発足」である。

これがつい最近、ネットで出てきて。
SNSから↑のような発言が出てきたわけである。

冷静に考えれば、テレビのメディアも、ネットも更新される情報は「最新」が普通。
特に今回の安保法案は当然どこのテレビでも放送するだろうし、むしろこの話題でもちきり。
国民の需要も考えればそうなるだろう。

可決から情報が少し落ち着いたところで先のような記事が出たのである。

人によっては「いきなり」とか「勝手に」行われていると思っている人が多いように思う。
ただ少し腰を据えて情報源をたどりながら本当にいきなりなのか、勝手なのか。
僕は調べてみた。
すると、どうだろう。
もう、一年前近くから発表されているのである。

↓これがそれ

「防衛装備庁、2000人規模で来夏にも発足 開発など一元化」

明らかにその当時の人々が政治に無関心だったかが分かりそうな気がする。

安保法案の流れで日本の大多数の国民がそれなりに危機感のような、使命感のようなものを感じ、その流れで感心を寄せる人が多くなったことは間違いないだろう。

だが、その可決のあとのとある、防衛装備庁の発足についてのネット記事にはいつからこの話が行われているかを書かれていない。
そして、SNSの発言から見ても国民は情報を、単なる「受け身」でそこから「反応」する形をとる。
言い換えれば、「反応するまで別のことを考えている、若しくは何も考えていない。」

もし考えていたとするならば、この防衛装備庁も安保も部分部分で似ているだろうし、反対派が批判する主な理由の武器関係が入る。

安保法案のように多くの人が外で主張をするくらいの、運動があったにもかかわらず、似たような点を、一部含む一年前から書かれていた内容については今日まで特に広がっていない。という事実。
これはやはり政治のしていることに、基本的には無関心なのではなかろうか。

要は、情報は【人任せ】で、【情報源】までたどり着かず、誤った解釈が生まれる可能性がある。

これが僕が今なんとなく恐れていることである。
今後の時代はこの点を考慮に入れなければならない。というより、必要になるだろうと思うのですよ。

自らが感心を持って、常に目を張ってみればあのような反応の仕方はしないだろう。
僕はそう思った。

各メディアの公表の仕方に波があることを僕ら凡人が知らないと意見の食い違いの前に信用がなくなり、話すらもできない。そんな風潮になってしまわないだろうか。
だからSNSで情報のやり取り、発言、主張は自由なのだが、その前に、一人ひとりが情報に対して冷静に咀嚼してから発信することが今後必要なのではないかな。と思いました。

僕も然り、ですけどね。
むしろ僕がその傾向があるので戒めを込めて書いた次第です、、、

そもそも政治のシステムも、時代の変化とともに少しアプローチを変えられると良いよね。

国民との距離に、どこか違和感をおぼえるのだよ。
それは、まぁまた、どこかで。


引用元:
日本産経新聞「防衛装備庁、2000人規模で来夏にも発足 開発など一元化」
http://mw.nikkei.com/sp/#!/article/DGXNASFS1703R_X10C14A6PP8000/
2015年9月19日閲覧

大人が先か、子供が先か〜国を変えたいと思うならどこから動くか

なんとなく考えていることがある。

僕ら普通の人の気持ちはやはり毎日会議で寝てるような大人達にはわかるまい、と。
誰もが思うことかもしれない。

外でいろいろ起こっていようが口元を歪めた顔で見ているだけかもしれない。

結局のところ、あの建物の中で行われていることに凡人は何も手を出せないのだ。


そう書いている僕はあの人たちの決めた事に対して肯定か否定かというのはここでは言わない。
そこが重要なんじゃない。

どっちの立場から見たって、どこか違和感のある雰囲気は理解できるし、
建物の中と外の世界はどこか違っていて、
僕はなんとなくため息が出るような感じだった。


基本的には何かを訴えようとするならば僕らは表に立ちアピールをする他ない。

だけど、中と外では虫かごに入った虫を眺めているような関係でしかない。これ以上は血も涙もないのか、という感じ。

大人を変えるのは難しい。
然るべき時に然るべきものが起これば然るべき方向に進むものだと僕は考える。

そうでない時は「何か」おかしいのだ。
しかしそこから学ぶことは大きい。
要は触媒作用のようなもので、

人によっては確信に変わるし、
人によってはきっかけになる。
人によって絶望かもしれない。

それはともかく、
何かを変えようとする姿勢から起き上がるところに来たところで、大人を変えるか子供を変えるか。にたどり着く。

教育は昨日よりも良く。
去年よりも良くならねばならない。
過敏に保守に回った瞬間から若さは消えるのかもしれない。

年が過ぎればあるものはあるもへと変わる。
当然の流れであって、
白黒のゲームを、やってた僕なんかとは違って今は画面から飛び出てカラーだ。

変わって当然だし、変わることで人は過去に価値を見出すのだ、と僕は思う。

僕より大人の世代は然るべき時を生きて、その時代に最も適した人だ。
緩やかに進化はするだろうが僕の世代に生まれた強みを認めない。
そして、僕よりも子供の世代は僕らにはない視点の強みを持っている。

上はもてるだけのノウハウと経験を堂々と伝えればいい。
受け取る側は素直に、受け取り僕らの世代の空気を伝えるべきだ。
そしていま学んでる子どもたちはそれを見るだけでなく、創造する力を持つべきで、
皆が生まれているところから見える視点は皆にしかわからないのだから、そこは自身を持って伝えるべき。

まずは全てを聞き、そこからまとめて話し合う。

そういう流れは作れないものか。


生きるのは自由だがなにかしらの責任を持つべき。
なにか使命を感じなければダメなんじゃないだろうか。

模索してると模索することが楽しくなるものだ。

哲学はまさにそれ。

所詮変態国家日本

誰もがネットを使えるようになり、スマホも殆どの人間が持つような時代です。
当然人間の欲求の堆積したものがスマホの検索履歴にちょいちょい残るわけです。
まぁ、取り敢えず消す人もいると思いますけど、ハッカーの彼女を持つ彼氏はもう逃げ場無いですよね。その辺まぁ彼女よ許せ。てなわけですが。

個人に焦点を当ててどうこう言うってわけじゃなくて、なんとなく僕の心に何とも言えない感情が心の下の下の沼地の下からズンドコべロンチョと湧き出た出来事を、紹介しませう。



唐突に始めますが、海外にある日本の言葉。
誰もが知ってる言葉はきっと↓

「ありがとう(ございます)」
「すいません」
「いただきます、ごちそうさまでした」
などなど、日本の文化が色濃く、たいへん素晴らしい言葉が多くありますよね。

その中でも
「hentai」は異端ながらこれもわりと多くの外国人は知っている言葉の1つですね。

まぁ、他にも悲しいかな「karoushi」なんてものもあって、これは辞書にはすでに書かれてあるんだけれども。(←調べてみりゃわかる)

もちろんもっとありますけどね。日本発の外来語は。

とりあえず、ピンク系サイトでhentaiは日本から海を超えたポピュラーワードなわけで。

要はそれについて何が言いたいのかというと。

Y'kow, Japanese are hentai as I expected.
(日本人はやっぱりhetnaiだな!!)

という僕の意見です。


さて、この言葉の意味を最初に書いた「何とも言えない感情」の理由についてお話します。

僕は好きなブログがまぁちょくちょくあって、それが理由ではてなブログを始めたのもあるんですけど、とにかく好きなブログをそれなりの頻度楽しんで見てるわけです。
同時に自分の主張なりネタなり、それなりに他人にも共感してほしいなーとか、楽しんでもらえると良いなーという気持ちで記事をたまに暇つぶし程度に書いているのです。
これはブログを書く大多数の人が思うことだと思うんですよ。

でもまぁ、ライターさんとか有名人とか、小さなところで話題になった人とかならそれなり人が集まりますが、なんとなく程度で始めた人って当然訪問者の数はそれなりです。

その中で僕のブログの訪問者数が一番多い日があって、しかも数がいつもの倍くらいで、なんとなく嬉しかったんですよ。
でも、その日に書いたブログは
【下ネタアニメ〜以下略】
という題名の記事。

アニメ系は人きます。
これはわかります。
やっぱり日本だなーと思います。

僕もアニメの記事書いた時はやっぱりちょっとその日の人の数はやや増えた感じ。

でもやっぱりやっぱりそれよりも群を抜いて多かったのが
【下ネt...(ry】
つまりエロワードによる訪問でした。

僕のブログは一応哲学とか、教育とか。
わりとアカデミックが主旨となってるつもりでやってるので、なんともこの結果には苦虫を噛み潰した顔をした記憶がありましけど。


僕が好きで見てるブログも思想とか日常系とかが主(なのかな?)で文才もあって好きなんですよね。まして訪問者数も多く、いっつも記事出る度☆マークついてていやー羨ましいなーと思います。

けど、やっぱり下ネタ系のタイトルの記事が出てた時、訪問者数の数が多くて多くて。

みんなの欲望が違ったところで見えた瞬間でした。

この時僕は、ホームページのエロ広告はやはり、3大欲求とされるなかでも一番集まるんだなぁと、改めて思いました。

普通のサイトでそぐわねぇ広告すると風紀が乱れる可能性もあって古手川さんが殴り掛かりそうですけど、なーんだかんだその手のやつが一番簡単にクリック広告で得になるんだよなぁ、、、
と、やや何とも言えない感情でブログを書く僕です。

下ネタは人を惹きつけ、盛り上がるけどリスクもある。

ネット界も人間同士の世界もおんなじ。
うんうん。深い。

英語教育推進に対する懸念

文部科学省が英語教育の強化を図り、中学校では英語の授業時間は割りと前から、週3回から4回に変わりましたが、今までの僕の解釈では、英語が浸透していく世の中で、学校の英語教育がより助長されて良かったなぁと思ってました。

僕は国際関係と教育課程を終えているのでその手の話は当然喜びに近い感情でした。

でも、ふと周りの学生がカフェとかファミレスとか電車内で勉強している様子を見ててすごく気がかりなことに気づいたわけです。

【外で学習する生徒は外国語しかやってねぇ】

これです。
もちろん見た人全員ではありませんが、あくまで僕が見えた学生さんは高確率で英語なわけです。

僕は「これでいいのか、、、?」と思いました。

何を一番心配しているのかは、英語の授業数の増加に伴う国際化推奨の流れが思いの外強すぎる。ということです。

僕は保守派ではない方だと思いますが、それでも日本の学校教育という点で、
国語の時間が英語よりも少ないことと、
理系科目を恐らく算数とな理科が苦手なイメージから全体的に授業数を増加しちゃえ的な考えと、
国際化が進んでるから授業数増やそう。
みたいなものが見え隠れしていてどうも腑に落ちない気持ちであります。

国際化が進むとはいえ英会話が主体じゃない現地の国語のような英語の授業スタイルではどうもバランスが悪い。
高校の英語授業に未だに中学校の復習をするという甘えが僕には気に食わない。

高校に入ってすぐに中学校かんたんな復習から入るってなんか違和感なんですよ。
優しすぎるというかなんというか、、
生徒もそれをなんとなく知っていることもあって、「やり直しがきく」と思っている節がありますし、学習教材なんかの決まり文句は基本的に「高校からやり直せる」みたいなことが書いてある。

欧米的に伸びる人が伸びるスタイルにしたほうがよっぽど生徒のため。
飛び級の制度がない点でもちろんメリットはあるんですけど、できる人は結局三年生になるまでゆるゆる進む授業に飽き飽きしてるだろうし、このまま生きて行く結果ビジネスの世界においてできる若者に対し、
「若者が調子に乗るな」
的な風潮になる。要は古い考え。
年功序列。年下の能力を根拠なく批判する風潮。

でも学校は教授法とかに関しても「競争させる」みたいなこと言ってますけど、
本当に競争させたいならできる人が出来ない人に教えてしまうスタイルはダメ。
挙句わからない生徒はできる生徒にすぐ聞いて答えだけ書いちゃう事が圧倒的。
これは別の方法を採用すべし。と思う。
教えることが理解、記憶の強化に結びつくので悪いことではないのですが、できる生徒はできるやり方、つまり自分にあったやり方で学習ができているからあまり必要ないのではないかな。

とにかく授業時間増やすのが相対的にその科目の能力が上がるとは言い切れないということ。
半ば強制的で息の詰まる生活になるのではないか。

生徒がいかに自分の意思で教科書を読むか。
参考書を読もうとするか。がとにかく重要。
受け身で「やらされている」と思ってるうちは良い方向に行きませんね。

僕はその点をより良くしたいと思ってます。
そのための勉強はまだまだしていきます。
他にもたくさんやりたいことはあるんだけど、、、

子供を育てるのは親だけじゃないのに教師はなぜ距離を取らされるのか

今の日本の教育において僕がずっと気にしてるのはこれです。

親と、教員がまず強調しない世の中に無責任を感じる。

親は子供を学校に入れるところまではそれなりに考える。
学校の選択ができるようになっている点で、親は距離と学校の評判で選ぶ。
でも、もしかしてそれだけじゃないですか。
モンスターペアレントっていう言葉は僕は嫌いです。ていうか、そういう言葉を作ろうとするメディアのおかげでより親と学校との距離も開く。
たしかに保護者の問題も有りますけど、そんなことよりとにかく主張したいのは、
「教師と生徒の距離感」です。

今の時代、塾のほうが先生との距離が近く、挙句、学校の先生より塾の先生のほうが好感がもたれてる可能性が高い。

僕はこれにとても違和感を感じるわけです。

学校っていうのは、小集団で、将来働くために必要とされる協調性と、その中で個人の個性を開花させる、気づく、伸ばすといった大事な期間であるにもかかわらず、今の中、高はどうも「グレー」の色に見えます。

とにかく距離感。
何がそうさせているのかは事件やらセクハラなどが主なのはわかりますけど、それがステレオタイプになりつつあるような気がしてならないのです。

本来、学校の先生は親よりもプロの教育者です。
当然保護者が一番子供のことを知っているのかもしれませんが、学校にいる時の子供を本当の意味で知っているのは自身の子の友達と先生です。

それなのに、僕には無言で「私が親なのに、あなたになにがわかるの」といわんとしているような気がするんですよね。

で、先生は親のコンプレインにびくびくしてものを言えなくなる。
親が、子供を育てるような関係性を、先生はできなくなっていんです。

子供もやはり敏感なもので、親がその姿勢だと教師のちょっとした言動に突っかかるようになる。言い換えれば舐めた姿勢をする。
子供は親を見て育つのは当然。
だから子供自身も、先生という人物との距離感を気にしてしまう。

塾の教育が、学校よりも、教師と生徒の心の距離感が近く、個人とまっすぐ向き合って、パーソナルなことも聞けて、道徳的にも刺激を与えられてる気がします。

これは学校の意義がなくなってしまう。
僕はそう思うわけです。

学校の意義は頭を良くするんじゃなくて、心の成長と個性の開花と社会に出た時のための基礎の基礎を固めることが優先されるべきなのに、先生の役割は事務的すぎるだろう。。。

というより表面的すぎる。。。

先生は時に補助的で傍観者の時もあれば、
親のかわりにならなきゃいけない時もあるじゃないですか。
なのに、先生は親の代わりにもなれない。
というより、親の下について頭を下げるような図式が今はポピュラーな気が、、、

教員養成のプログラムの強化より、地域との繋がりが重要だろうに、、(主に中学校)
なんだかなぁ、学校の意義は頭の良さじゃないだろう。
もちろん頭脳も大切だけど、そんなスキルなくてもやれることは思ってる以上にあるぞ。と言いたい。視野狭すぎじゃないですか。
自分自身に必要なものがあったらちゃんとやりますって。
それは親の言葉、友達の言葉、先生の言葉で、自身が気づかなきゃいけないんですよ。
それに気づけるかが頭の良さだと思います。

とにかく先生は先生で教育のプロだと自覚して堂々とやりなさいよ。
親は親で心配事もあるだろうけど預けてる以上教師間でもう少し相談しあえるくらいの関係作れば。。。と
で学校は学校で教師の管理を強化するなりして、名声とか評価じゃなくてマクロな視点でまず第一にもう少しそういうことに徹底できる運営にしたらってことで、
んで政治は政治で百聞は一見に敷かず。学校を直接見る機会増やせるようにすればって感じだし、グローバル化の前にローカライズにもっと力入れればって感じです。
地域が輝いてない。僕にはそう感じる。

教育問題は夜から飲んでたらいつも朝になる不思議。
また話したいなー。

僕も必ず教育の改革を担えるほどの人間になりたい。

Twitterの『#本棚の10冊で自分を表現する』に便乗する【後編】

前回の記事の続きです。

さて、前回の5冊は主にノベルズでした。
あまり小説は読まない質ですが、それでも読めるくらい面白かったやつです。

おそらく小説のストーリーとかで、僕のタイプとかが浮き彫りになるのではないかなと思います。
もし同じタイプとかだったら仲良くしたいです。
いや、
そうじゃなくても仲良くしたいです。
よろしく。

さて、では残りの5冊いきますかね。


【思考の整理学】
外山滋比古

もう王道ですよね。
国語の教科書にも、書店でもとにかく多くの作品を世に出してる外山先生。
やはり、王道は手にとって間違いないです。

僕はわりとアウトロー思考で、僕は皆と違う。みたいなことを昔から(今もまぁ有りますけど)言ってて、俗に言う王道というものをあえて避けてたところがあったんですけど、その考えは視野が狭かったと言わざるを得ない。そんな作品です。
僕が本をよく読むようになったのも、外山先生の作品から急に上昇したと言えるくらい影響がありました。
おかげで外山先生の本はほぼ全部持ってるくらい好きになりました。
とにかくこの思考の整理学は題名の通りのことも書いてあれば、生きる喜びみたいなものを淡々と書かれており、人生が少し明るくなった気がします。
また、情報の整理には本当に参考になりまして。一生の財産になりました。
本棚にある切り抜きやら印刷したものやらは、まさしく『我が思考、ここにあり。』です。


夢十夜
夏目漱石

子供の時、唯一国語の教科書で今になっても惚れ込続けた作品。
国語で出会う話には、ほかにも好きな話はあります。スーホーの〜やら、やまなし。他にもありますけど本まで買ったのはこの夢十夜のみですね。
全部の作品が好きではないんですけど、夢十夜だけは兎に角好きで、何度も何度も読みました。
でもたしか、国語の教科書のは全部乗ってなかったと思いますけどね(^^;)

幻想文学が好きなのはこれがきっかけだといえますね。
しっかし、第一夜の話がまぁーーー素敵。
子供ながら吸い込まれてましたね。
今でも映像が浮かぶ程。
かくも儚き詩にハマりました。
またあの時代ならではの空気感。いいですね。
短編だし苦手な人でもおすすめです。
今の本は他の作品も一緒になってるので一石二鳥だと思います。


【世界十五大哲学】
大井正 他

もはや僕が哲学にのめり込んだきっかけの本であり、この本以外の入門書はお勧めしたくないくらい好きな本です。
線やら書き込みでボロボロです。
今まで哲学の意味をよくわからずなんとなくな感じでしたが、これを読んだことによって人生に道が開けた。というより視野が広がった。
ものの考え方、捉え方。様々な主義とか思想、歴史背景なども一気に知れる。人生をより良く生きようとした先人たちの教えが詰まってます。これは教員とかその手の人たちは必読と言えそうなくらい。いや、読むべきなんじゃないかなぁ。
んで、どうせ生きるなら一つくらいこれだといえるような思想を持つといいと思います。
自分で作るもよし、先人を見習うもよし。

人生の参考書というべきでしょうか。
好きな本です。



【プシュケの涙】
柴村仁

なんでかなー。
読まなそうなタイプなのにしっかり読んでたのがあったわーー。
これ、ミステリーなんですけど。
なんだろう。切ないなー。
僕が読んだのは、講談社の方じゃなくて、メディアワークスの方で、表紙もまた。。。ねぇ。

いいんだよねー。

学生のノリもあり、ミステリー要素もあり。
結末の方とかもう、、ね。
って感じ。


文学作品だなーって感じです。
映画とかアニメじゃない魅力を感じれる本だと思いますよ。
ただラノベっぽいけど挿絵無いのでそこ気にする人はお気をつけて。



【指導者の条件】
松下幸之助

指導者を目指すものとして、手に取らないわけがない。
この本には、とにかく教養が身につくことがびっしりと書いてあります。
この本の良い所は、著者自身の独断による条件の提示じゃなくて、歴史的な人物を片っ端から挙げつつ、その人柄や歴史を通して、松下先生の言葉を含めてその指導者としての技術を明らかにしつつ、それだけに留めず、それを現代に当てはめようとする姿勢まで書ききっている所がポイントだと僕は勝手に思っています。
現代の時代の状況をわからずして、そのまま教えを用いるのではなく、取り巻く状況からどう応用すべきか。というところまで考えさせてくれる本です。

タイトルだけ見ると、なんとなく著者の独断で、指導者っつうのは、あーしろ、こーしろ。んで、これはだめ、これはいい。
みたいな事が書いてあると思いそうですが(最近の本がやたら著者のエゴで書かれてるから余計にそう思う←←←)
やはり今でも愛される所以はそういう類のものではないからですね。
この本のおかげで多くの偉人に興味を持ちまして、一石三鳥以上の収穫になりました。
ほんとうに出会いに感謝です。




以上10冊の本を挙げさせていただきました。
思いの外文学作品によってしまいましたが、本来持っている本はもっとお堅い本が多いと思います。。。

とにかく今持っている本の数が尋常でないので挙げるのが大変でしたが、なんとなくその人の個性が見れて楽しいのではないでしょうか。
他の人の記事があれば覗いていきたい。んで共有したいです。
読書の秋バンザイ。

てなわけでこれにてドロン。