人生は哲学だ~凡人の生き様日記~

啓蒙思想家に憧れ。理想は新渡戸稲造。 レオナルド・ダ・ヴィンチよりも多趣味だと思いたい。学問的、哲学的、時にアニメとか映画、んで個人的な雑記で、理想は酒でも呑みながらある種の娯楽として楽しめるものになればといいな的ブログ

子供を育てるのは親だけじゃないのに教師はなぜ距離を取らされるのか

今の日本の教育において僕がずっと気にしてるのはこれです。

親と、教員がまず強調しない世の中に無責任を感じる。

親は子供を学校に入れるところまではそれなりに考える。
学校の選択ができるようになっている点で、親は距離と学校の評判で選ぶ。
でも、もしかしてそれだけじゃないですか。
モンスターペアレントっていう言葉は僕は嫌いです。ていうか、そういう言葉を作ろうとするメディアのおかげでより親と学校との距離も開く。
たしかに保護者の問題も有りますけど、そんなことよりとにかく主張したいのは、
「教師と生徒の距離感」です。

今の時代、塾のほうが先生との距離が近く、挙句、学校の先生より塾の先生のほうが好感がもたれてる可能性が高い。

僕はこれにとても違和感を感じるわけです。

学校っていうのは、小集団で、将来働くために必要とされる協調性と、その中で個人の個性を開花させる、気づく、伸ばすといった大事な期間であるにもかかわらず、今の中、高はどうも「グレー」の色に見えます。

とにかく距離感。
何がそうさせているのかは事件やらセクハラなどが主なのはわかりますけど、それがステレオタイプになりつつあるような気がしてならないのです。

本来、学校の先生は親よりもプロの教育者です。
当然保護者が一番子供のことを知っているのかもしれませんが、学校にいる時の子供を本当の意味で知っているのは自身の子の友達と先生です。

それなのに、僕には無言で「私が親なのに、あなたになにがわかるの」といわんとしているような気がするんですよね。

で、先生は親のコンプレインにびくびくしてものを言えなくなる。
親が、子供を育てるような関係性を、先生はできなくなっていんです。

子供もやはり敏感なもので、親がその姿勢だと教師のちょっとした言動に突っかかるようになる。言い換えれば舐めた姿勢をする。
子供は親を見て育つのは当然。
だから子供自身も、先生という人物との距離感を気にしてしまう。

塾の教育が、学校よりも、教師と生徒の心の距離感が近く、個人とまっすぐ向き合って、パーソナルなことも聞けて、道徳的にも刺激を与えられてる気がします。

これは学校の意義がなくなってしまう。
僕はそう思うわけです。

学校の意義は頭を良くするんじゃなくて、心の成長と個性の開花と社会に出た時のための基礎の基礎を固めることが優先されるべきなのに、先生の役割は事務的すぎるだろう。。。

というより表面的すぎる。。。

先生は時に補助的で傍観者の時もあれば、
親のかわりにならなきゃいけない時もあるじゃないですか。
なのに、先生は親の代わりにもなれない。
というより、親の下について頭を下げるような図式が今はポピュラーな気が、、、

教員養成のプログラムの強化より、地域との繋がりが重要だろうに、、(主に中学校)
なんだかなぁ、学校の意義は頭の良さじゃないだろう。
もちろん頭脳も大切だけど、そんなスキルなくてもやれることは思ってる以上にあるぞ。と言いたい。視野狭すぎじゃないですか。
自分自身に必要なものがあったらちゃんとやりますって。
それは親の言葉、友達の言葉、先生の言葉で、自身が気づかなきゃいけないんですよ。
それに気づけるかが頭の良さだと思います。

とにかく先生は先生で教育のプロだと自覚して堂々とやりなさいよ。
親は親で心配事もあるだろうけど預けてる以上教師間でもう少し相談しあえるくらいの関係作れば。。。と
で学校は学校で教師の管理を強化するなりして、名声とか評価じゃなくてマクロな視点でまず第一にもう少しそういうことに徹底できる運営にしたらってことで、
んで政治は政治で百聞は一見に敷かず。学校を直接見る機会増やせるようにすればって感じだし、グローバル化の前にローカライズにもっと力入れればって感じです。
地域が輝いてない。僕にはそう感じる。

教育問題は夜から飲んでたらいつも朝になる不思議。
また話したいなー。

僕も必ず教育の改革を担えるほどの人間になりたい。