生徒と教師の関係性―本当の学校のあり方とは―
まず前置きとしてこう述べたい。
教育において僕は過去は過去、今は今という考え方はしない。
今僕が常々感じているのは【人間関係の形成】が申告に不足していると思う。
現代におけるキーワードは何か
僕は【コミュニケーション】という言葉を頻繁に目や耳にするから、この【コミュニケーション】が最も現代に生きる人が意識的にも無意識に感心を寄せていると感じる。
ネットの進化に伴うネット内でのやり取りでも、やはり人間同士のやり取りは実際に顔を合わせてやるほうが良い。
なにより、将来個人に最も必要とされる要素の1つに【コミュニケーション】が挙げられるのは言うまでもないし、去年やら今年の企業の求める人材にかつての【高学歴】よりも【社会人としてのコミュニケーション能力の高さ】を重要視し始めているのは資料を見るなどすればわかるだろう。
ましてインバウンド率の上昇。
企業は海外の語学能力を必要とするようになった。
当然、語学能力=コミュニケーションの式が成り立つはずである。
そういう意味で僕は最もコミュニケーションの中でもしかすると一番重要なのではないかと信じているものがある。
【大人(目上の人)とのコミュニケーション】だ。
僕たちはなんとなくコミュニケーション、コミュニケーション、と言うけれども、
大人とのコミュニケーションで最も親しい存在とは何か。
【教師】である。
もちろん、親戚、ご近所も当たるかもしれないが、施設の中で、集団的に行動をするという意味で【教師】との距離感を最も重要視しなければならないのではないかと思う。
学校のあるべき姿は、授業にあらず、それ以外で如何に生徒と触れ合えるかが教員の課題である。
今では教師、生徒間の距離感は今更議論するほどでもない『愚かな問題』が多いがために遠くなっている。
この問題を解決する方法は断定できるものではないが、いくつか方法はあるはずだ。
- ホームルームでの何気ない会話をする努力
- 給食時間に割り込むルールを設ける
- 保護者など、学校の自由参観
等々ある。
ホームルームは大人として子供に伝えるべきことを教えながら、同時に自然な会話力を教師は備えていなければならない。
日常会話しない教員は僕は決していい教師と呼びたくない。
そういうのは塾にあるVOD: 授業ビデオでいい。学校でやることではない。
給食時間は僕の見た、経験した限り、教師が紛れてコミュニケーションをとることは割合低いと見える。
給食は食育であるが、同時に最もコミュニケーションを図る毎の出来る時間だ。
教師は恐らく、生徒との会話に入れないことを危惧している。
あるいは、生徒たちが教師という『大人』が居ることで気まずい気分になること。
最悪なのは、教師自身がなにも考えていないことだ。
毎回食事する場所を変えながら、本当にどうでもいいことを会話するべきだ。
そして、生徒に、気まずいと思わせない技術を持つべきだ。
もちろん、確かに話す内容が限られるかもしれないし、事実、生徒も多少の気まずさを感じることだろう。
しかし、無言で教師との会話を求めている生徒も居ることもある。
逆も然りだが、むしろそういう人とも今後付き合わなければならないことを生徒自身は知るべきだ。
社会に出るために人間を磨くのだから、苦手な人は居ていいし、むしろ無視を通すのではなく対応する技術を教えるべきだ。
最後に挙げた学校の自由参観だ。
これは少々難しいかもしれないが、定期的に可能にするなどして教師に保護者との関係も強化すべきだ。
一年、もしくはそれ以上我が子を預ける親の気持ちを考えればわかるはずだろう。
数回しか合わない教師に不安を感じるのは至極当然だと思われる。
最悪、月に一度、授業風景をビデオに撮るなどして、DVDを配布するか、パスワードを設け、保護者に閲覧可能もさせるようにするかして、保護者なりに教師について知る機会を増やすのも事件を防ぐ意味で良いと思う。
過去の学校は恩師を慕う傾向が多かれ少なかれ現代よりもあった。
現代は危ないからといろんな面でセンシティブな教育界。
一昔の教師と生徒の関係性を見つめなおしてうまく改善していきたいと僕は願う。
学校は頭を良くするんじゃない。
当たり前なことを忘れている気がしてならない。