人生は哲学だ~凡人の生き様日記~

啓蒙思想家に憧れ。理想は新渡戸稲造。 レオナルド・ダ・ヴィンチよりも多趣味だと思いたい。学問的、哲学的、時にアニメとか映画、んで個人的な雑記で、理想は酒でも呑みながらある種の娯楽として楽しめるものになればといいな的ブログ

大人が先か、子供が先か〜国を変えたいと思うならどこから動くか

なんとなく考えていることがある。

僕ら普通の人の気持ちはやはり毎日会議で寝てるような大人達にはわかるまい、と。
誰もが思うことかもしれない。

外でいろいろ起こっていようが口元を歪めた顔で見ているだけかもしれない。

結局のところ、あの建物の中で行われていることに凡人は何も手を出せないのだ。


そう書いている僕はあの人たちの決めた事に対して肯定か否定かというのはここでは言わない。
そこが重要なんじゃない。

どっちの立場から見たって、どこか違和感のある雰囲気は理解できるし、
建物の中と外の世界はどこか違っていて、
僕はなんとなくため息が出るような感じだった。


基本的には何かを訴えようとするならば僕らは表に立ちアピールをする他ない。

だけど、中と外では虫かごに入った虫を眺めているような関係でしかない。これ以上は血も涙もないのか、という感じ。

大人を変えるのは難しい。
然るべき時に然るべきものが起これば然るべき方向に進むものだと僕は考える。

そうでない時は「何か」おかしいのだ。
しかしそこから学ぶことは大きい。
要は触媒作用のようなもので、

人によっては確信に変わるし、
人によってはきっかけになる。
人によって絶望かもしれない。

それはともかく、
何かを変えようとする姿勢から起き上がるところに来たところで、大人を変えるか子供を変えるか。にたどり着く。

教育は昨日よりも良く。
去年よりも良くならねばならない。
過敏に保守に回った瞬間から若さは消えるのかもしれない。

年が過ぎればあるものはあるもへと変わる。
当然の流れであって、
白黒のゲームを、やってた僕なんかとは違って今は画面から飛び出てカラーだ。

変わって当然だし、変わることで人は過去に価値を見出すのだ、と僕は思う。

僕より大人の世代は然るべき時を生きて、その時代に最も適した人だ。
緩やかに進化はするだろうが僕の世代に生まれた強みを認めない。
そして、僕よりも子供の世代は僕らにはない視点の強みを持っている。

上はもてるだけのノウハウと経験を堂々と伝えればいい。
受け取る側は素直に、受け取り僕らの世代の空気を伝えるべきだ。
そしていま学んでる子どもたちはそれを見るだけでなく、創造する力を持つべきで、
皆が生まれているところから見える視点は皆にしかわからないのだから、そこは自身を持って伝えるべき。

まずは全てを聞き、そこからまとめて話し合う。

そういう流れは作れないものか。


生きるのは自由だがなにかしらの責任を持つべき。
なにか使命を感じなければダメなんじゃないだろうか。

模索してると模索することが楽しくなるものだ。

哲学はまさにそれ。