誰が書いたのだろうか、山本くんの豆本がなかなかハイセンス
山本くん(やまほんくん)をご存知だろうか。
僕は前に数回お目にかけたことがあって、なんとなく面白そうなガチャガチャが出たもんだなぁと思っていた。
あぁ、山本くんはガチャガチャなんですよ。
一回二百円。
このあいだたまたま見かけてもう一度よく見たらどうやら僕は大事なことを見逃していたことに気がついたんですね。
『山本くんのフィギュアだけじゃなくて、【読める豆本】が付いている』
という事実。
僕は衝撃を受けましてね。
だってガチャガチャって、特に、最近のガチャガチャって変わった主旨のフィギュアが主じゃあないですか。
【サメフライ】とかさ、
前に話した【メジェド様】とか、
【自由すぎる女神】とかとか、
あるわけですよ。
それって、やっぱりフィギュアのみ、つまり単体が作品として売られてるわけです。
だから、本を顔にくっつけるくらい読書に夢中で顔が見えない山本くんという作品も、【顔が見えないところに女子の胸を熱くするロマン】のようなものがあるもんだと思ったわけなんです。
謎の人、小林かいち作品の女性のシルエットだって、顔が見えないところに妄想を膨らますようなロマンを感じる。みたいな。
だから『ちょっと風変わりなフィギュア』なんだなとしか考えてなかったんですね。
あと、余談ですけど、視力良くない方なんでしっかりと見なかったところがありましたから尚更ですね。
そんなこんなで、 初めて山本くんの魅力に気がついたわけです。
んで、買いましたよ。
全部で5種類あるんですが、肝心の豆本がそんなに面白くなかったらお金も泣くので三回程回して、家に持ち帰りました。
僕が今回手に入れたのは、緑、青、赤の三種。
他に黄色と、ピンクがあります。
色で言ってもわかりっこないのですが、今回そこは問題じゃないので続けます。
カプセルを開けてから気がついたんですけど、
山本くんのフィギュアってストラップになってるのなー。とか思ってたらこれもまた勘違いしていました。
これ、
【しおりになっておる】
なかなかやるな....!(;`・ω・´)
ってなかんじで心の中で思ってまして、
僕普段しおりとかその手のやつ全く使わないんですけど、どうせだからと思って、僕が好きな作家の一人、井上夢人さんの【もつれっぱなし】が近くにあったんで、再読がてら一番好きな作品の所に挟んでおきました。
さて、肝心の豆本を楽しみにしていた僕は早速全部読み終えた。
正直な感想を一言でいうならば、
「面白い」
これ、コンプしたい。
そう思いました。
期待以上ですね。
他のブログとかを見ると同じことを言っている人が居ますね。
ストーリーが星新一を彷彿とさせる作品があります。
【ペトペト座】という作品がそれです。
青の豆本になりますね。
これは僕自身なかなか衝撃を受けた作品でした。
世界観がわりと好きですし、ショートショートだから面白く読めたんじゃないかなと。
正直豆本いいなぁ。
僕もショートショートなら豆本で出したいかも知れない。
そう思えるエンターテイメント性を楽しめました。
物語のあらすじはかなり縮尺していうと、
―研究生であるぺぺとトトが主人公であり、ある日、本来観測されない位置に光を観測する。
それについて、それが本当に星かどうかを観測するために調べ始める二人。
その光の正体とは、、、―
とまぁこんな感じ。
星新一にあるんじゃないかなって雰囲気を感じるはず。
僕は好きです。
ほんの一時を楽しむのには超オススメです。
ガチャ本。
流行るんじゃないだろうか。
残りの二作品はまた次の記事にまとめておいたほうがいいかなと思います。
今回は山本くんの紹介が主なんで、
全体的な感想を別でまとめます。
気になる(のか?)方は是非、次回目を通して山本くんの魅力を知ってくれると嬉しいです。
↓山本くん。
僕はシリーズ化を望む。
切実に。
書評。京極夏彦【厭な小説】
【厭な小説】という短篇集を購入。
京極夏彦は初めましてだった。
「厭」とは、はて、どの程度厭なのだろうかと思ったところから購入に至る。
本もまた、分厚くて誠によろしい。
- 作者: 京極夏彦
- 出版社/メーカー: 祥伝社
- 発売日: 2012/09/01
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この本の中に【厭な彼女】という話がある。
これが非常に面白かった。
簡単に言えば彼女は彼(主人公)から「〜が嫌い」とか「〜が嫌だ」とかそういう否定の言葉をもらうと【次の時からずっとその厭な事を態とらしく「する」】のである。
あー。厭ですね。
そうそう。この小説は【厭だ】という言葉がいつも始まりと締めにだいたいあるんだけど、オチにある「厭だ」という言葉が持つ重みがもう凄いですね。
だって確かに「厭だ」もんね。
僕だって「厭だ」し。
また、各章の冒頭文の「厭だ」もなかなかいいですね。
なんとなくその言葉の続きに耳を傾けたくなる。
主人公に同情の感情を持たざるを得なくなる。
しかし、【厭な彼女】。厭だね。
でもこの話の彼女は途中まではなんか可愛く見えるんですよ。
主人公との不協和音がどこかシュルレアリスム的で良い。
主人公の心の描写もまた良い。
厭な事が現在進行形で起こってるんだけれども、主人公の性格がそうなのか…淡々とツッコんでいる。
この小話の良いところはやはり家の中で繰り広げられる「ハヤシライス事件」(←僕が勝手にそう呼ぶことに今決めた)ですね。
このあたりのシーンは読み終わって随分経つけれど、時に脳裏に蘇り、心の中で苦笑してしまうこともある。
いや、主人公にとってはなかなか屈辱的で、精神的に参ってるんだろうけれども、彼女の振る舞いと、テーブルにあるハヤシライスの事と、淡々と行われる会話。
これは形容し難い空気である。
後半は京極夏彦さん持ち前の狂気な空気と
精神にじわりじわりと陰りがかかる感覚。
これは面白かった。
他の話ももちろん好きなんですけどね。
この話は特に記憶に植え付けられた。
すごく良かったのだけれど、ハヤシライス見たらやっぱりフラッシュバックするわけです。
―厭だ。
頭の中でドイツから熱海・風雲文庫へ。そして村上春樹と出会う
タイトルからは察し得ないだろうと思います。
実際僕もどういう経緯でこうなったのか、些か疑問でありながら、まさか村上春樹さんがあの【風雲文庫】に行った経験があるとは、、、
村上春樹さんはそもそも好きです。
特に好きなのは『カンガルー日和』と『中国行きのスロウ・ボート』です。
- 作者: 村上春樹,佐々木マキ
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 1986/10/15
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- 作者: 村上春樹
- 出版社/メーカー: 中央公論社
- 発売日: 1997/04
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村上春樹さんの文体を目で追うなり、思い出すと頭の中が緑と、黄の靄のようなものががそよ風に乗って混ざりながら流れる印象を受けます。
さて、タイトルの話に戻りましょうかね。
僕はドイツ史―主にナチス政権時代―に感心があり、資料を読む日々が暫しありました。
当然ヒトラーという人物に出会うわけですが、どうやら調べてみると、【風雲文庫】という、展示品を並べてある博物館(のようなもの)が日本の、しかも熱海のポツンと立つ五重塔に遺品やらなにやらが展示してあるというブログを発見。
頭の中のドイツの旅から突然、日本の熱海に来たわけである。
しかも全く知らない博物館(のようなもの)である。
不思議な世界にすでに足を入れたみたいでありました。
僕はまだ風雲文庫に現実では行ったことはないので何時の日か旅のついでに行ってみたいなぁと思ってます。
で、たまたまその風雲文庫について今度は調べて見ると、村上春樹さんの名前を見つけたわけである。
(春樹さんも行ったことあるのか)とそこで知ったのですが、どうやらしかも当時の旅の『本』が出てるとのこと。
(―おぉ、まじか...)
驚きました。
その本は【地球のはぐれ方】というもの。
春樹さんこういうのもやるんですね。
最高です。
- 作者: 村上春樹,吉本由美,都築響一
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 2004/11/10
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他の旅の記述も多くありまして、普通に楽しそう。
てなわけで、早速amazonでポチりまして、まずは気になっていた風雲文庫のページから見る。
コメントがシュール。
そして圧倒されてる春樹さん。
面白かったです。
この本は至るところに写真が載ってるのですが、ご本人も写っていたり、なかなか充実した本でした。
思わぬ場所にヒトラー関係の品々。
他にも展示はありますが、全体としてシュール極まりない。
まして村上春樹さん。
このトリニティは僕の中では随分衝撃的であった。
思わぬところで異端なコラボレーション。これはそう巡り会えるものじゃない。
読んでいる瞬間、シュールな体験をすることができて非常に満足でした。
このシュール具合を堪能した後は、普通の旅の頁をめくる楽しみもまだまだある。
好きなものが、思わぬところで出会う時の歓びはシュールレアリスムの真髄である。
旅好きにはおすすめ。
自分で参考にして行くもよし。
文の中で旅するもよし。
紀行文の楽しみ方を知ることが出来てよかったと思う。
【紀行文】ってやつが素晴らしい
紀行文とは、旅の記録のようなものである。
僕は専らその手の本どころか文章も読んだことなんてほとんどなかった。
つい最近、某古本市にて私の好きな著者の一人、巌谷國士氏の紀行文(といっていいものか?)をまとめた一冊の本「日本の不思議な宿」という文庫と出会うこととなった。
巌谷國士氏というと、日本におけるシュールレアリスム関係の書籍を多く出し、また、それらを翻訳するなどでご存知の方も多い。
当然僕もその入り口から入ったのだけれども、紀行文の存在については暫くの間気づかなかった。しかし、運命哉。僕は古き日本への感心が強く、また時期的に温泉に行きたいと切に願っていたこともあり、そしてさらに、仕事が落ち着く頃合いなので旅行に行こうという話になっていたのだから、(之 はてさて 神の意思かな)と思ったものですから、普段はそこまで熱心に見ようとしない類の本を、偶々好きな著者で、本の内容も適していた(紀行文の著作は数冊あるのだが、偶々今回ののみ出会ったのだ)ということで書斎の仲間入りとさせていただいた次第です。
さて、本文の内容というと、通常の紀行文ではあるものの、やはり巌谷氏。数多の文学作品の舞台と通ずる場所へ行ったり、どちらかといえばマイナーで趣のある宿を選ぶ。
そんな中、宿の方との少々の会話や心の声の中にユーモアあり。景色の描写もまた現実ながらも文学作品の一遍を読んでいるような、紀行文に慣れていない僕から見れば新たな門戸が開かれた嬉しさがある。
僕の性格もあるのだろうが、巷で出てくるような大衆向けの雑誌よりも遥かに深く、そして正直な感情を抱く。専ら大衆向けは「売り」しか書けないだろうし。
今はスマートフォン1つあればレビューなんかもある。
それぞれのいいところを活かしつつ僕は、まんべんなく見ていこうと考えてます。
たまたまネットで紀行文に関する書物やらなんやらを検索してたら一般人の素晴らしい言葉に出会った。
「私が世界を知ったのは旅したからではなく本を読んだからである」
これは本来フランスのノーベル賞受賞者、アナトール・フランスの名言「私が人生を知ったのは、人と接したからではなく、本と接したからである」から来ているのですが、素敵な言葉ですね。
僕もそれが可能になる紀行文に出会いたくなった。
自分自身でも旅しつつ、ポケットにも旅へのチケットを増やしておこう。
文学のパンク〜【自動記述】というぶっこわれ様式〜
自動記述という様式を知っているだろうか。
僕がこの存在を知ったのはそんなに昔のことではないのだけれど、冷静に考えてみるとこの様式は最早【ぶっこわれ】だろう。
自動記述とは何か、についてまず以下に述べておこう。
自動記述(オートマティスム)は、あらかじめ何も予定せず、先入観を捨て去り文章を書き付けるという、主に文学の表現方法で、シュルレアリスム宣言の中に示されているシュルレアリスムの定義に即したものと言えるだろう
(Wikipedia, 「アンドレ・ブルトン; 自動記述について」)
一般の人の解釈を僕がここで代弁するならばこうだ。
「何も予定せずに書くということは、物語の構成も何もかも考えないということだよね?」
―そういうことです。
例えば、著者が寝ている時の口述だったり、兎に角高速で筆を進めるなど、、、
僕が咀嚼したもの―恐らく他の人も同様だと思う―を表すならば恐らくこうだろう。
【無意識下で行われる記述に現われる個人の(つまり著者の)美徳や純粋な感情、時に固定概念から逸脱した中に本来なら現れない表現などがでてくる点において文学ならではの表現を求めた主義、思想である】
人は意識すればするほど、物事がスムーズに行かない。
そんな経験はきっと誰にでもあるだろう。
バイトで食器を洗っていたとするならば、その食器の価値がわからなければ、恐らく早々と洗い、棚に戻す作業までも早々に行うだろうが、その食器が―見た目からは想像もつかない―非常に高価で決して割ってはいけないと言われたらどうだろう。
手は震えるかもしれないだろうし、動作もスムーズには行かない。
書類の手続きなんかもそうだろう。
意識すればするほど文字が歪んで見えるだろうし、誤字、脱字もあり得る。
また、無意識だからこそ現れる美徳が見えてくるのであろう。
そこに美を見出した文学家がアンドレ・ブルトンである。
自動記述とはいえど、全てが本当にバラバラなのかというとどうも決してそうではない。
1つのグラスを割れた欠片を不規則に並べたようなものに近い。
不思議と何かが点と点で結ばれているのだ。
それは何十年かぶりに会う同胞のようなそんなちょっとした面白さやら感動やら良くも悪くも分からない混沌とした情景が浮かぶのだ。
この文学様式の面白さはそこにある。
この自動記述(オートマティズム)がつまり【シュールレアリスム】の始まりであり、先に挙げたアンドレ・ブルトンこそシュールレアリズムの父と呼ばれている。
シュールレアリスムは今でこそ日本では「シュール」という言葉―厳密な意味では多少異なるが―は普通に使われている。
言葉というのは時代が進むにつれ意味が広く解釈されていくから、このシュールレアリスムも多くの意味を持ち始めてもう随分時が経つ。
文学のパンク的立場のオートマティズムの様式は随分数が少なくなっているようであるが、僕はシュールレアリスムを通して人生の価値を見いだせるものと信じている。
自分なりにまとめながらその世界観にせめて仕事の息抜きにでもどっぷり浸かっていたいというかんじです。
興味があれば、アンドレ・ブルトンの「ナジャ」と「シュールレアリスム宣言/溶ける魚」をおすすめしたい。どちらも岩波文庫であります。
風邪ひいた時に書く文章に何らかの変化はあるのか。
昨日会社を早退した。
理由は風邪をひいて兎に角ボーッとしてしまうのと、これは今帰らないと次の日は確実に一日ダウンするだろうという危惧から大事をとった結果であります。
会社にいた時は(休憩のコーヒーがうめぇな。)
んで、都市部の緑の少ないコンクリビルだらけの1棟の窓から見える秋の独特の晴天の空の下を歩く歩行者やら景色やらを眺めていると頭の中にふとルネ・マグリットの『呪い』を思い浮かべるくらいの余裕さは風邪の初期症状なんてどうでも良かったのに、その後なんとなく(あ、これ下手すると明日駄目かもな。)と思ってから僕は早々の帰宅を選択した訳であ る。
そしたら『なんとなく』から『やっぱり』と確信の方向に体調は進んでいた。
そんな訳で今巨人に左右のこめかみ頭辺りを掌でぐぐぐ、と押されてるよつな鈍痛と、鼻か か水がアウト・オブ・オーダーである。
要は"Now my nose is running."
【ランニング】とはなかなか面白い表現だなぁ。
とまぁそんな感じで。
アウトローな僕が、今流行に乗っている風邪をひくのはもう悔しい。この一言に尽きる。
しかし風邪をひいた時はやはり何もかもが嫌なもののように世界が変わって見えるのはぼく僕けだろうか。
食事。会話。次の日のこと。
どれも面倒極まりない作業のように思えて仕方がない。
しかも本なんて読めない。
そこまで集中力も無ければ、その活字の世界のイメージの入り口で何かに引っ掛けられているような感じで中に入れない。
現実にぽつーんと置いてけぼりにされた気分だ。
しかしながら自分のアウトプットはこうしてこなせている。
水持ってきて。とか、病院に問い合わせたいから携帯とってもらえる?とか。
本当に風邪をひいた時はこうして動きたくても動けない(甘えだとは思うけどこの際だし)。
つい側に人がいれば頼んでしまうし。
とにかく床にふして別の世界に行きたくても門前払いを食らって、現実でコントロールが思うようにいかない頭を振りながらペンギンの如く歩くような感じになってしまっている。
ただ怠い感情が嫌いだし。
自分が風邪なんてひいてしまうことに甚だ遺憾だし。
とにかくもうマイナスな感情に体がなっしまうのがもう気に食わない。そんな感じだ。
一人暮らしの時は―約2年だったと思う―風邪を一度(だったと思う)ひいたことがある。
それはもう親も居なければ、看病してくれる人はまぁ、居なかったわけで。
そもそも友人、その他に態々風邪ひいたから来てよなんてことは言わないし言いたくない。
そんな訳で、だるい体で独りで過ごしたわけだが、これは誰にもお勧めできない。
必ず一人でも彼氏/彼女または友人を置くべきだと言える。
孤独の恐ろしさは一人暮らしで病気してみるとわかる。
両親も遠くに住んでいる場合がまさにそうである。
今の僕は付き添ってくれる人がいるから風を引いても何かと手を貸してくれるから良かったと思う。
孤独の風邪は二度と引きたくないものだとふと思い出した今日の朝である。
そして今日は、大事をとって一日欠勤の電話を入れた。
僕は、風邪をひいて無理して行くのは逆に周りに迷惑だと思う質だ。
それでも行くという人は確かに当たり前なのかもしれない。
でも、もし今日少しでも無理していって、本来休むべき日より倍も休まなきゃいけなくなったら、それほど迷惑なことはないだろう。
だから正直に話すし、自分の身体の感じを見て、変な話少し余裕を持って話をしておく。
ヤバくなって休みの連絡を入れるのはまぁ緊急ならまだしも、普通の風邪とかならなんとなくわかるだろう。
んで、休まなければ休まないわけなのだから僕はそういうことをさらっと言える関係であれば会社はもう少し良い環境になるんだろうなぁと思った。
僕の環境はとても良い方だな。ともおもった。
言葉数撃ちゃ当たる現代の唄。んで岩と硬い場所に挟まる僕。
言葉数撃ちゃ当たるのは要は最近の曲の歌詞は―平成生まれのアーティストを指す―どうも言葉を早口でマシンガントークするが如くの曲が多い。
そしてそれだけじゃなくて、ジャンルがみーんな同じで僕は最近音楽を聞けなくなっている。
というより、今出てくる音楽を受け付けなくなってきているように思う。
それだけ歳をとったとでも言うのだろうか。
どうも信じ難い。
僕の両親は「最近の曲は本当にわかんない。」
「何言ってんのかわかんない。」
「わからん。」
とまぁ、こんな具合だった。
そんなセリフを聞いてから一人暮らしをして、2、3回引っ越しをして転々としてかれこれもう随分経った。
僕が思っている以上に世界っていうのは、否、時間というのは淡々と僕の身の回りを置いてけぼりにしたまま通り過ぎて行くんだなぁ。と思わざるを得ない。
それくらい僕も大人になっていればいいのだが。
そう。
とにかく親が言っていたセリフを僕が今TVをスナックとミモザというわけのわからないコンビネーションで飲み食いしながら言っていたことに気づいた。
Stuck between the rock and the hard place.
ローリング・ストーンズのこの歌詞が兎に角今の状況にピッタリだな。
とクールに決めてみたいものだが、もうこれは自分を呪うかみんなそう思っているかで明日からの心持ちが何となく変わる気がする。
兎に角、何をお前は言いたいのか。というと、
かいつまんで言うとこんな感じ:
【現代の人気として挙がる曲は洗脳的である】
【...つまり感情のない『灰色』な曲】
【結局はアーティスト自身がメディアにマニピュレートされている】
僕には今の音楽には灰色に感じる。
昭和〜2000年までの音楽には僕はカラフルに感じたものだった。
僕には色を感じる能力など無いのだけれど、どうも今の音楽を聞くと灰色が浮かぶのだ。
そして、歌詞は言葉が多すぎる。
時代なのだろう。
未来的でロボットが歌うようなそんな感じになるように。
オリジナルを出そうとおかしくなるバンド名。
メンバーは高校、大学生のバンド仲間の延長に近い。
うまく言えば楽しそう。そして等身大。
悪く言うなら、、、やめよう。
ちがう側面で言うならメディア向けに仕立てようとしてしまっているのだろうか。
バンドも売れる、半ば有名人になりたいところだろうか。
僕は何処かで歌の喜びの捉え方を間違えたのだろうか。
僕はアームストロングのような。
アイズレーブラザーズのような。
ジプシーキングスのような。
全般で言うならば演歌的な。
メッセージを送るような。。。
そのロマンが、現代の音にしばし寂しさが含まれるように感じてならない。
スタック ビットウィーン ザ ロック
アンド ザ ハード プレイス
僕の世代と
今の世代にそんな大きな差は無くても。
なかなかどうして、共感できなくなるのは一体何がそうさせたのか。
そんな微妙な狭間でジェネレーション・ギャップを感じているそんな夜。