人生は哲学だ~凡人の生き様日記~

啓蒙思想家に憧れ。理想は新渡戸稲造。 レオナルド・ダ・ヴィンチよりも多趣味だと思いたい。学問的、哲学的、時にアニメとか映画、んで個人的な雑記で、理想は酒でも呑みながらある種の娯楽として楽しめるものになればといいな的ブログ

当たり前な命題【僕(あなた)がこの瞬間に生きる意味】って何よ

最近思うことがある。

当たり前なことなのに、いや、当たり前だから忘れてしまっているのだろうか。

【僕のこの世界の、この瞬間に生きる意味とは何か】
についてとてもよく考える時間が増えた。

今まで生きてきて何回も考えたことが他の人にも当然あると思う。

僕も何度も同じ事を考えてきたが、普通の日常にまた溶け込んで気がつかないうちに自我の隅のすみに埋もれて、そして忘れてしまう。


でもまたこうしてふと意識に現れてくる。

これにはなにか、メッセージのようなものを感じる。

僕は、どんなことにも、なにか重要なクルーがあるものだと思い始めた。

自分の生きる意味を常に持つべきだ。
これは変わってもいい。
絶えず持つ人もいるだろうが、人生は多くを経験した方が得だろうと考えるから僕はこれに固執し続けると思う。

あまり、考えたくない話だが、自分が死んだ後の世界を想像すると良いかもしれない。

死んで、誰が悲しむ。というのではない。
そういう事も考えてもいいのだが、もう少し後の時間に進ませてほしい。

言ってしまえば、「二度目の死」と言えばいいだろうか。

「一度目の死」は私自身の死。
一般の、普通の死の事である。
そして先の「二度目の死」と言うのは、
【私を実際に知る者の死】である。
言い換えれば、一度目の死が肉体の死なら、
二度目の死が精神の死とでも言えようか。

そしてこの二度目の死の後の時間について考えてほしい。
その時、「私」というものがその世界の何処で役に立っているのかを考えたときに、
今、こうして過ごしている自分のやることなす事がとても重要で大切なものだと感じるのだ。

哲学というものは、ある意味、精神の科学である。

科学という言葉に対して苦手意識を持つ人もいるかもしれないが、説明しやすいので勘弁してもらうとして、

そもそも科学というのは、人によって捉え方は異なることもあるかもしれないが、
事実を知ることで今後の生き方をより良いものにする学問。
と捉えている。

つまり、精神の科学。哲学を知ることは、今後の人間のより良い生き方の指南書のようなものであると考えている。

自分が、自分を知らない人たちの世代になったとき。自分という今の存在になんの意味があるのだろうかと考えるのだ。

幸せになって死ぬのは本望である。
でも僕はそれで終わりにしたくない。

なにか、人の役に立つものが、今後の時代にも残る程の生を全うしたい。そう考える。

たとえ、叶わないにせよ、この思いを持つことが非常に重要であろう。
さすれば自分の選択により責任を持つだろうし、
何事も使命だと感じ、物事に対してプラスに考えて行動できるだろうと思う。

日本は哲学というものに何か難しいことのように感じているのか、それとも何か間違った解釈をしているのか分からないが、あまり重要性なものだという考えは無いように思う。

道徳というものすら、かつての新渡戸稲造は日本の道徳が成立する理由に対する答えに苦難し、後に武士道という素晴らしいものを発表することになるのだ。

数学の本でも同様な、よく見る言葉がある。
当たり前なことを証明することが今後の発展に一番貢献する。という手のものだ。

当たり前なものの存在に無関心になるのが一番簡単だが、ここが今後の人生、この先の人の精神にとってかなり重要なものなのだ。


難しい事を考える人がさて天才か?
よくインテリという言葉を聴くが、
それは既知の知だ。
工夫して覚えるという点で賢くもあるのだが、
子供の方が真の意味で頭がいいのだと思う。

ベーシックこそ叡智の源泉。
シンプルイズザベスト。

よく聞く言葉はやはりそれほどでかいものだが、よく聞くと悲しいかな。当たり前という言葉で深く考えることに規制をする。

今回の記事の最初に書いた生きる意味の考えもやはりなにか自分だけの使命を勝手に持つべきである。

自分の為にこの記事を備忘録として残す傍ら、同じように感じたひとがいればこの考えをどこからでもいい、吸収してくれればうれしい。
僕もいろんなブログで親でも友達でも本でもない偶然出会う記事を吸収している。

インターネットはうまく使えば遥かに自分というものをアップデートできる。
ガセや宗教的思考には気を付けなければならないが....

とにかく、そんな事をかんがえた今日のこの瞬間である。

僕は歴史のどこでもいい、名前が載るといいなという使命を持って生きている。