俺は嫌い。でも他の人はそれが好き。俺は損をしているのではないか?
まず。この話を書くきっかけを綴ろう。
ある日のこと。
その前に、私は読書が好きである。
ただ読書が好きというと、漠然としているから、敢えて言うなら学術的なものであろうか。
哲学。教育。心理。数学。歴史。宇宙科学。生物学。。。
挙げるとキリがないが、だからと言って全部...と言うわけでもない。
レオナルド・ダ・ヴィンチの嗜好に近いと私は思うのだが、比べる相手を間違えている気もする。
「レオナルドは兎に角多趣味で且つ飽きっぽい」
彼の性格はこうであり、私は彼のそんな性格に親近感を覚えた。それ以来、私は彼を尊敬している人物の一人であり、理想の人物像の一人でもある。
私は学術的嗜好が強いが、文学作品も多くはないものの関心が強い。
SF文学、そして幻想文学である。
幻想文学は夏目漱石の夢十夜で目覚めた。著者でいうと、SFと幻想文学の間をとる星新一。幻想文学寄りのバリー・ユアグローが主である。
そんな私が良く行くのは当然だが古本屋である。黄色、またはオレンジの看板の有名チェーン店である。
そこに立ち寄るのはもうかなりの回数であるのだが、ふと私は古本屋である種の「恐怖」を覚えたのだ。
普通に古本屋と言うのは、リユース。多くの本が置いてあるが、当然誰かが買い、それを売りに行く。
または本屋に置かれていたものだが売り物にならなくなった状況のものも、他の理由もあるとは思うが、殆どは誰かが買い、売る。そう思っている。
そう。この「誰かが買い、それを売る。」というこの当たり前の事実に驚愕したのだ。
私は多趣味で本屋の殆どのコーナーを見て回る程であるが、当然買うものを自分で選択して買っている。そこでふと気づいた。
「誰かが惹き付けられて買われて売られた本たちだが、私はその内のほんの一握りしか読んだことがない。私にとって、興味ない分野を飛ばしていたコーナーも、誰かが楽しんで読んでいたからここ(古本屋)に置いてあるのだ....。その魅力に気がつかないで生きていく。これは何か損ではないか?」と、途方もないことに気づき、一人で空しく思ったことがある。
他の人から見ればこの考え方はナンセンス。勿論私もそう思う。
ある種、「私の存在は、こんな広すぎる世界の内のほんの一部にすぎない。」というような、一度は誰でも考えたことがあるようなものに近いだろう。
これは死ぬまでに世の中にある全ての本を読むとかいう空虚な考え方だ。自宅に戻り、冷静にこれを考え、現実的に処理できうるように、これを別のかたちに変えようと思った。つまり、考え方を変えるとこうなった。
「嗜好について、自分の好き、嫌いでものを判断してスキップするのは勿体ない。その魅力をまず十分に伝えてもらう機会を得よう。考えよう。」と。
そこから自分にとって、需要があるか無いかで判断しよう。と。
興味ないものって何となく勝手な判断で選んでるように思う。
嫌いなものって、「そんな気がするから」で排除してる気がする。
でも、誰かが必ずその魅力に気づいて本を手に取るのではないか。
私はこれを思い付くことによって、――というより――普通に人と関わる中でかなり多くの益をうむことにも繋がるだろうと思った。
つまり、
「嫌いだから、興味がないからといって、人の話をなぁなぁに聞く。またはスルーするとか、知りもしないことを何か知ったように否定するのはあまりにも不十分だ。」
と私は思ったのである。
必ず物、事には魅力がある。
だから多くの仕事に人はそれぞれ誇りを持つことができるわけであり、経済は動き、人は生きていけるのである。
始めにこう考える。
嫌い、興味ないと思う前に、「その魅力をまず考えたことがあるか。そして、どの点は肯定でき、どの点が否定的なのか。」
こういうのを必ず他者と関わる時自分に問えば、冷静に判断でき、そして相手を理解できる可能性はかなり広がる。
若しくは自分自身がその魅力に気づいてしまい、話は弾むかもしれないし、私は古本屋に赴き、自分の思考を広げることができて、世界を知ることができて、思わぬ出会いにもなりかねない。そう思ったら今すぐにでも友人なりと酒を交わしたくなる。
私はそういう機会を多くの人がいろんな形で応用していけば、他者を理解しようとする前向きな社会に近づく一歩であると思う。
自分の好きな本だけを探さずに、
自分の苦手な人も好きな人も関係なく、相互に理解していけばいいと思う。
人付き合いが苦手そうな人を見つけたら聞いてみよう。
この人苦手だけど、一日くらい話してみよう。
そして興味ない話題の魅力を「?」で投げ掛けてみよう。
なにか、変えられるかもしれない。