2015年11月29日午前4時の夢想家の戯言
自分は長い歴史からみたら本当に儚いものだろうが、自分を末永く存在させる方法は【書く】ことにあるのかと、此処最近は強く思うようになった気がする。
理由はわからない。
夜だからかもしれない。
夢想家でいることが最も幸せなんじゃないか。
僕はそんなことを考えるほどに心と身体が繋がっていないんだな、とも思う。
頭だけで考えていると、世界が頭脳の中だけで広がっていくのだ。
体を動かすことに面倒臭さのようなものを感じることがある。
ただ、ひたすら自分という箱に収まって、肝心の魂が脳というエデンでいきいきと行き来する。
外に出ていても景色が立体に似た表面の写実的な絵画のように見え、触れようとしない。
触れようとしない―というより、なんか自分は夢を見ているような感覚でしか無いのだ。
会話だって、自分との対話が多い。
僕は六角形の鉛筆よりも多角形なくらい、ちがう自分を持っていると思う。
いや、たぶん皆そうなんだろうか。
僕は、ある意味僕じゃない。
カメレオンよりも不器用だけど触れたものの面が顔を出すのだ。
その時の僕は、僕なんだけど、僕じゃない。
たまに、自分を偽って本当の自分をだせないことに悩む人がいると思うが、僕はそれじゃない。
本当の自分は毎回どうであれ本当の自分だと確信しているんだけど、他の側面の自分はその時消失してるから僕じゃないといえば僕じゃない。
だから、きっと出番が来るまで留守番をさせられた、残る側面の僕たちが落ち着くべきところに落ち着きたくて、自分との対話に落ち着くのだろう。
もちろん他者との対話も好きである。
むしろ、食事をするより、眠ることよりは多分誰かと話をし続けていたいと僕は思う。
話をすることは誠に快感である。
声を出すこと。
思想、言い換えればおもいなんかを吐き出すこと。
エロスの側面でみても。
吐き出すことは快感である。
身体から出すことは理にかなっている事が多いと思う。
まぁ、それは戯れ言に過ぎないけれども、
とにかく対話にはメリットが多い。
他者との対話から得られるものはすさまじい。
多くのギフトをいとも簡単に手に入れることができる。
そこから自分との対話の中で仕分け作業が入る。
最終的にいろんな僕へとそれぞれ与えられる。
またそれを思考という名の会議室で集まってこねくり回す。
それを今度は僕なりに味付けして調理した別の料理ができる。
僕の頭はいつもこうだ。
二元論者ではないけれども、自分はどうも一人じゃないらしい。
身体は身体としての僕なんだけれども、
頭の中にはどうやらかなりの数の僕が住んでる。
寺山修司の【赤糸で縫いとじられた物語】の「数字のレミ」には、選択を迫られると、その選択肢の数だけレミが増えてしまうという話がある。
僕はまるでそれに近い。
先日、芸術家の人と話をした僕は、確かに僕なんだけど、僕じゃない。
多趣味ではあるから、芸術についても良く知っていることもある。
だからその時の僕は「芸術家(風)」の僕が出てくる。
好きな絵の思想を軸に僕は僕のエゴで対話する。
ふと芸術家の話が教育関係にとシフトする。
―これは僕に合わせて話がシフトしたのだろう。
するとぼくは芸術家(風)の僕の隣に「教育家」としての僕がいる。
だけど、身体自身の僕が声を出すと、芸術家(風)の僕と教育家の僕が混ざる時もある。
話の流れでそういう時もある。
だんだん教育の話に熱が上がってくると芸術家の僕がすすすーーと、脳のどこかに帰る。
僕の頭はある種のメルヘンだ。
哲学家なんてはるかに底なし沼だろうが、僕は一人ならず二人でも、とにかくこうしている時間がコーヒーブレイク並に楽しいのだ。
その時の思考を文字におこすこともまた楽しい。
時が過ぎて読み直す。
赤面する以外選択の余地はなさそうだが、
当時の僕が文字として存在している。
それを、時が過ぎたときの僕と出会う。
―なんというか、夢想家がどこまで幸せかよくわかると思う。
僕も夢想家の類の所があるけれど、それは「夢想家」の僕がいまこのブログを綴ってるに過ぎない。