人生は哲学だ~凡人の生き様日記~

啓蒙思想家に憧れ。理想は新渡戸稲造。 レオナルド・ダ・ヴィンチよりも多趣味だと思いたい。学問的、哲学的、時にアニメとか映画、んで個人的な雑記で、理想は酒でも呑みながらある種の娯楽として楽しめるものになればといいな的ブログ

活動再開 -だがこんなブログ、誰が読むのか-

三日坊主と言わんばかりの速さでブログを書かなくなり、気が付いたらそれをも超えるスピードで歳をとっていた。

 

どうも。

 

タイトルの通り、誰も読まないブログを書くこの時間とは一体僕に何のメリットが\あるのだろうか。と考えながらもこうして書き綴っている矛盾。

 

しかしながら、自分が書いたブログを見返す愉しみを覚えた点でブログに何かを綴る意味はあったのかもしれない。

でもこうしてブログを書くという行為は正直に白状するならば

「人に読まれたい」

「コメントが欲しい」

「いいね(的なやつ)押して欲しい」

という単純明快な欲求のためであると言える。

 

自己満足でブログ書いてますって限りなく自分を言葉でハードルを下げつつも、やはり誰だってその下から目をギラつかせているし、なんだかんだ見返した時に読み手からのシグナルがなければそれはもうつまらないし哀しいし続かない。

 

何故僕は今ブログを書いているのか?

この問に答えてみれば理由が見出せるかもしれない。

 

-なんとなく(ブログを書くという行為そのものへの満足)

-メモ的なことを紙に記録するよりも手軽(効率)

-誰かと共感、共有したい。その中で新たな価値観を見出したい(承認欲求)

-自分との対話をブログに残すことで自分を見つめなおす(反省)

-あらゆる分野から批判的意見を持つことによって何かしらの社会貢献(自らの行動等)に繋げるきっかけを作りたい(実践的価値)

 

基本的に誰かに向けて書くわけではなく、主に自らを高めることを第一として、その次に共通した考えを持つ人などとの交流を試みる。

 

これが現在の僕のブログを再び書こうと思った動機だ。

 

また何かのきっかけでブログ書こうと思っています

団結するだけで満足して終わるのは革命にならない

タイトルだけで察しますかね。

時代だったか文明だったかは忘れましたけども、某は衣服のように着替えるような儚いものだとかを見たか聞いたかしましたが、僕は大いに頷きました記憶があります。

今こうしてその言葉を思い出したのも、ふとしたきっかけがあったわけでもなく、此処暫くの間心の中で煮込まれてたものが泡を吹き始めたようなものであります。

故に何時これを書き綴っても可笑しくないと言う事です。


僕の中には、時代は常に革命あってして改革するものだと思っております。

革命というのは、何か悪い予感のする事態や、文字通り悪い時代を変えようと、否、変えなければならないと悟ることをきっかけに、意見を共にする人々が一致団結し、大きな運動をする。そういうものだと僕は考えています。
して、一致団結する人々はマイノリティ、つまり少数派によるものであると思われます。

そもそも、僕が何を言いたいのかと言いますと、今では落ち着いてきた(?)安保法案の可決に向かおうとする最中の反対派によるデモなどの運動による反対派の団結力について思うことがあるからであります。

思う事というのは、タイトルの通りでございまして、マイノリティがマジョリティに勝る、まさに革命をしようと奮起した若者達の脆さ、と言うと語弊がありますが、を感じたもので、此れはある意味では、今という時代の反映の結果のように思われます。

僕はそもそも、安保法案については、決まった事は真摯に受け止めているのでこれ以上何かを言うつもりはありません。
そして本題はそこではないのでこの手の話は置いておきます。

さて、結局のところ白状すると、若者達による一連の運動は【祭レベル】であったと。客観的に見ている人から言うとそのように思います。

一致団結する、その気持ちと行動力は僕も大いに尊敬に値しますし、嫉妬すら感じてしまう程のものでありました。
なにか革命が起こるかもしれないと思った瞬間でもあります。
暫しの運動については述べるまでもなく、自然な流れであったと思います。

問題はそちらではなく、可決に向かおうとする最中、まさにタイトルの通り、壁の向こう側で最低限の安全を足元において主張するのみだったということ。
此れほど滑稽で且つある種の無念さを感じたのは言うまでもない。

私より二まわり程度の人と一夜、そのことについて話すと、同意見であった。

少しの守りを感じた、との事であります。


あれほどまでに多く人が集まったにも関わらず、何故反対の陣に入り込まなかったのか。

かつての学生運動のようにとは毛頭言うつもりはない。
しかし、自分らのために捨て身になろうとする程の気持ちの強さを感じたのは確かであります。

今回のような運動には気持ちの強さを感じることが私に少なくとも無かったことであります。

僕は、何かを変えたいときにはそれじゃいけない。そのように思います。
何事も捨て身に近い程の確固たる意思を貫こうとする事も時には重要になる。とそのように思います。

今の時代が垣間見れたような気もするのはそういうことです。

革命を起こそうと奮起するまで良く。
団結した時には満足して最早単なる同意見者との歓びを叫んでるようにしか感じなかった。

これは単なる一人の戯言ですから、変に受け取らないで、そういう考えを持つ人も居るのだな。と思っていただけるだけで済ましてほしいと思います。

僕自身も、誰が悪いだの、莫迦だの阿呆などと言っている訳ではなく、いろんな感情があるうちの一つを綴ったに過ぎません。

今回は、一致団結から革命を起こそうとするのに何が有力なのか、そして、何が正しい動きなのか、また、意見が割れた場合にどう人々を動かしていくのが良いか、という事についてあらゆる方面で物事を捉えたいがためにこの運動を例に取った訳であります。

僕自身学んだことが多々あります。
いろんな事をあらゆる面で、そして、反対の意見の方にも冷静に見て考える時間を設けるのは今の時代を生きる上での大きな資本として蓄えられると言えるのではないかと思います。

音楽ってうまいもクソもねぇよな

音楽の重要性について述べたいことがありますのは前々からのことでありまして、
できることならば革命が必要になってくるのではないか、若しくは首を長くして待つことしかできない。
僕はアーティストでは無いが、楽器に親しみ、歌に親しみ、小さいながらライブも経験はしていたから、少なくとも音楽関係は常に気にはなっていたのですね。

音楽については二種類あって、
技術的に高く且つ高尚なもの
無理論だが感情に訴えかけるもの

だと思っておりまして、
高尚と描いたものの、この2つは現代では何方も大衆音楽です。

上手いと定義されるものは上にあたり、
そうでないと解釈されるのは下になります。

メディアというのは本当に恐ろしいと実感するのは、歌が上手いから感動するというすり込みである。
いわば洗脳である。

それは日本の「音楽」が「文字通り」に機能していないと思うのだ。

コンテストはあっていい。
それは技術を要する人間をつくるという意思の基行われているのだから良いだろう。

しかし、公の目にあたるもので、上手なものをとりあげるのみのものが殆どである。

お陰で、少しでもズレのある、と言うより他にはいない、いうなれば異例に近いものは即座に笑う、言葉は良くしたものの、嘲笑に近く、卑下な目で見、憐れなりとつぶやく。

上手いものを扱うしかない能のない音楽業界のプロデューサーはそれ以外は扱えないのか。

こんなんだから、歌に技術を要する人間のみをとりあげるか、下手だけどかわいいから何とかなるアイドル(語弊はあるが氾濫しているから言わせてもらう)を使う。
言い換えれば楽な方楽な方としているからだ、
間違いないからという保守的な面持ちでいるから、大衆音楽が日本に入ってきて半世紀以上経つが、今この時が一番危うい気がしてならない。

アニメソングというものはまさに音楽を文字通り扱えるものと感ずる。
ある程度の制約(テーマなどストーリーに沿うなど)から少しばかり離れられる。
アーティストもあらゆるジャンルをまんべんなく歌えるかは定かではないタイプの人間をなかなかうまく使いこなしているとも感ずる。

また、ゲーム関係はYMOから始まり、今はかなり多くのゲームが増えた。アングラなもの大人向け、大衆向け。その中の音楽なども良い。
その違いはなんだろうか。

大衆音楽にはないテーマを扱うものもあれば、
ある程度実験的な音楽も許される。
私は同人グループによる音楽を高く評価する。

大衆音楽ももちろんであるが、うんざりする歌詞やメロディライン。アーティストのスタイル。
被りに被る。
ましてメディアが取り上げるのはより凝縮したオイルのようなもので胸焼けがする。

私は、音楽とはディスコ、クラブミュージックのような開かれるべき音楽を愛したい。

童謡のように技術など頭にない子どもたちの唄に酔いしれたい。

メディアが取り上げる近年の音楽には、裏の裏の裏が見え隠れする気がして、伝わってこないのだ。
むしろ僕が哀れなのかもしれない。

しかし、最近のテレビのお陰で、カラオケも楽しめない人がいるのではないか。
友と行く楽しみを、洗脳された挙句、鼻で笑われる、若しくは鼻で笑ってはいないか。

自分があのアーティストのように歌えないから歌手になれないよなぁ、と諦めていないか。

断じてちがう。

そんなものに人生の夢をすぐに曲げようとするな。


革命が必要だ。

テレビも少しながら幅を利かせて欲しい。

楽しい音を奏で。

感動させてほしい。

技術なんぞ、オーディションがあるのだから、
そんなものを見るのはうんざりなのだ。
他所でいくらでやっているだろうが。

水道水でなく、山の水を欲してる気分で僕は音楽を聴く。

これら述べたことは遠回しに自分に言い聞かせているのも言うまでもないのだが…。

生徒と教師の関係性―本当の学校のあり方とは―

まず前置きとしてこう述べたい。

教育において僕は過去は過去、今は今という考え方はしない。

今僕が常々感じているのは【人間関係の形成】が申告に不足していると思う。

現代におけるキーワードは何か
僕は【コミュニケーション】という言葉を頻繁に目や耳にするから、この【コミュニケーション】が最も現代に生きる人が意識的にも無意識に感心を寄せていると感じる。

ネットの進化に伴うネット内でのやり取りでも、やはり人間同士のやり取りは実際に顔を合わせてやるほうが良い。

なにより、将来個人に最も必要とされる要素の1つに【コミュニケーション】が挙げられるのは言うまでもないし、去年やら今年の企業の求める人材にかつての【高学歴】よりも【社会人としてのコミュニケーション能力の高さ】を重要視し始めているのは資料を見るなどすればわかるだろう。

ましてインバウンド率の上昇。
企業は海外の語学能力を必要とするようになった。
当然、語学能力=コミュニケーションの式が成り立つはずである。



そういう意味で僕は最もコミュニケーションの中でもしかすると一番重要なのではないかと信じているものがある。

【大人(目上の人)とのコミュニケーション】だ。

僕たちはなんとなくコミュニケーション、コミュニケーション、と言うけれども、

大人とのコミュニケーションで最も親しい存在とは何か。

【教師】である。

もちろん、親戚、ご近所も当たるかもしれないが、施設の中で、集団的に行動をするという意味で【教師】との距離感を最も重要視しなければならないのではないかと思う。

学校のあるべき姿は、授業にあらず、それ以外で如何に生徒と触れ合えるかが教員の課題である。

今では教師、生徒間の距離感は今更議論するほどでもない『愚かな問題』が多いがために遠くなっている。

この問題を解決する方法は断定できるものではないが、いくつか方法はあるはずだ。

  1. ホームルームでの何気ない会話をする努力
  2. 給食時間に割り込むルールを設ける
  3. 保護者など、学校の自由参観

等々ある。
ホームルームは大人として子供に伝えるべきことを教えながら、同時に自然な会話力を教師は備えていなければならない。
日常会話しない教員は僕は決していい教師と呼びたくない。
そういうのは塾にあるVOD: 授業ビデオでいい。学校でやることではない。

給食時間は僕の見た、経験した限り、教師が紛れてコミュニケーションをとることは割合低いと見える。

給食は食育であるが、同時に最もコミュニケーションを図る毎の出来る時間だ。

教師は恐らく、生徒との会話に入れないことを危惧している。
あるいは、生徒たちが教師という『大人』が居ることで気まずい気分になること。
最悪なのは、教師自身がなにも考えていないことだ。

毎回食事する場所を変えながら、本当にどうでもいいことを会話するべきだ。
そして、生徒に、気まずいと思わせない技術を持つべきだ。
もちろん、確かに話す内容が限られるかもしれないし、事実、生徒も多少の気まずさを感じることだろう。

しかし、無言で教師との会話を求めている生徒も居ることもある。
逆も然りだが、むしろそういう人とも今後付き合わなければならないことを生徒自身は知るべきだ。

社会に出るために人間を磨くのだから、苦手な人は居ていいし、むしろ無視を通すのではなく対応する技術を教えるべきだ。


最後に挙げた学校の自由参観だ。
これは少々難しいかもしれないが、定期的に可能にするなどして教師に保護者との関係も強化すべきだ。

一年、もしくはそれ以上我が子を預ける親の気持ちを考えればわかるはずだろう。

数回しか合わない教師に不安を感じるのは至極当然だと思われる。

最悪、月に一度、授業風景をビデオに撮るなどして、DVDを配布するか、パスワードを設け、保護者に閲覧可能もさせるようにするかして、保護者なりに教師について知る機会を増やすのも事件を防ぐ意味で良いと思う。


過去の学校は恩師を慕う傾向が多かれ少なかれ現代よりもあった。

現代は危ないからといろんな面でセンシティブな教育界。

一昔の教師と生徒の関係性を見つめなおしてうまく改善していきたいと僕は願う。

学校は頭を良くするんじゃない。
当たり前なことを忘れている気がしてならない。

やりたいことはあるけれどそれを結局どうしたいのだろう

人生の妥協点に留まることに僕は納得がいかない。
というより、やりたくないことをやりたくないだけ。

やりたいこと。

そもそもやりたいことって言っても数種類に分類できるんじゃないかな。
今思いつくとしたら僕は以下の3つに分類できる。

  • 趣味の範囲(自宅内)でやれること
  • Institutionを必要とすること
  • 現実的にやれないこと(夢想に近い)


趣味の範囲(自宅内)でやれることにも枝分かれで細かく分類できそうだけど、ややこしくなるから説明だけに留めておこう。
例えば作家なんかになりたい人とかはこれ、
バイトしながら夢を信じてあちこちに応募するタイプ。
他には小物を売る人。
芸術家。音楽系。などなど
つまり作品を売りたい人、作りたいだけの人がこれかな。


次にInstitutionを必要とするもの。
主に研究職、資格が必要とされるものがこれかなと。
これは、結構大変。
例えば大学院とかに行きたいと考えてるなら、
それは【〜になりたい】という通過点では正直行かなくていいと思う。
つまり、上に挙げた趣味の範囲に格下げできる。
大学院は専門の専門。
大学じゃないからむしろ【何を研究したいのか】そして【研究したいことができる環境か】というのが重要。

他に当てはまるのは資格取りたい人。
科目等履修生とか、ユーキャンとか、講座やらなんやらを通して、なりたい自分の為の『通過点』としてやりたいこと。
多分大学(短期、専門)もこれに近い。

大学院だけすこし別になりそうです。


最後は現実的にやれないこと。
単なる空想もあれば、今更その道に行く余裕がない人。生き方を間違えたー。とかやり直してぇー。というのも入る。


なんというか、現実にやれないことは空想と言ったけれども、実はこの手の人は工夫が足りないのかもしれない。

例えば政治家になりたいけど、、、みたいな人は、日本の地方で知事からやろうと考えて無いかもしれない。

身体的に叶えられない人も居るかもしれない。
ただ、可能性は本当にゼロか?

親友に託す方法。
知り合いの知り合いにアポを取る。
自分でアイディアをひねる。そして専門的な人にメールをするくらいの熱望。

僕は本当にやりたいことと言うのは一人じゃできない。
だから友人を使うとか、恩師に連絡するとか、そういう「他人に迷惑かけちゃおうぜ」的な精神が必要だと思う。

それが出来ないとか、忙しそうだし、悪いし、、、とか言ってしまうのならやりたいことじゃないんじゃないのかなと。

悪く言えば楽したいだけ。
甘え。

僕は人生そんな思いをしたくない。
やりたいことっていうのは自分勝手なのだ。
だからそのための手段は

【自分に出来るだけの自信があるか】

これだけだと思う。
本当に自信があって、それに関してやりたいならば履歴書なんていらない。
まずは知り合いなり、機関にメールしてみるとか恩師を伝うとかそれくらいやらにゃなと思う。

趣味の範囲でやりたいことには含まれないけど、最終的にはそれも発表する機会が必要になったら場所も人も必要だから同じかもしれない。


頭が良いから何とかなるのか?

頭の悪い上司(自分より学力の低い)の下につきたくないと、たまに聞くけれども、1、2年我慢して下剋上してやろうと思わないのだろうか。

僕の性格がそうさせているのかもしれないけれど。

本当に頭が良いなら当然五年かからないで偉い地位に立てるんじゃないかな。
そしたら少しずつ自分の環境を自分なりに変えられるんじゃないか。
僕はそういう風に思う。

結局プライドが高いのはいいことだけれど現実突きつけられたら一発で傷心するのが主なんだろうな。

これは恥ずかしながら全部自分自身に言っているのだ。

こうして記しておく事が僕にとって一番の助けになるのかもしれない。

2015年11月29日午前4時の夢想家の戯言

自分は長い歴史からみたら本当に儚いものだろうが、自分を末永く存在させる方法は【書く】ことにあるのかと、此処最近は強く思うようになった気がする。

理由はわからない。
夜だからかもしれない。

夢想家でいることが最も幸せなんじゃないか。

僕はそんなことを考えるほどに心と身体が繋がっていないんだな、とも思う。


頭だけで考えていると、世界が頭脳の中だけで広がっていくのだ。
体を動かすことに面倒臭さのようなものを感じることがある。

ただ、ひたすら自分という箱に収まって、肝心の魂が脳というエデンでいきいきと行き来する。
外に出ていても景色が立体に似た表面の写実的な絵画のように見え、触れようとしない。

触れようとしない―というより、なんか自分は夢を見ているような感覚でしか無いのだ。

会話だって、自分との対話が多い。

僕は六角形の鉛筆よりも多角形なくらい、ちがう自分を持っていると思う。

いや、たぶん皆そうなんだろうか。

僕は、ある意味僕じゃない。

カメレオンよりも不器用だけど触れたものの面が顔を出すのだ。

その時の僕は、僕なんだけど、僕じゃない。

たまに、自分を偽って本当の自分をだせないことに悩む人がいると思うが、僕はそれじゃない。

本当の自分は毎回どうであれ本当の自分だと確信しているんだけど、他の側面の自分はその時消失してるから僕じゃないといえば僕じゃない。

だから、きっと出番が来るまで留守番をさせられた、残る側面の僕たちが落ち着くべきところに落ち着きたくて、自分との対話に落ち着くのだろう。

もちろん他者との対話も好きである。
むしろ、食事をするより、眠ることよりは多分誰かと話をし続けていたいと僕は思う。
話をすることは誠に快感である。

声を出すこと。
思想、言い換えればおもいなんかを吐き出すこと。
エロスの側面でみても。

吐き出すことは快感である。

身体から出すことは理にかなっている事が多いと思う。

まぁ、それは戯れ言に過ぎないけれども、
とにかく対話にはメリットが多い。

他者との対話から得られるものはすさまじい。
多くのギフトをいとも簡単に手に入れることができる。

そこから自分との対話の中で仕分け作業が入る。

最終的にいろんな僕へとそれぞれ与えられる。

またそれを思考という名の会議室で集まってこねくり回す。

それを今度は僕なりに味付けして調理した別の料理ができる。


僕の頭はいつもこうだ。


二元論者ではないけれども、自分はどうも一人じゃないらしい。

身体は身体としての僕なんだけれども、
頭の中にはどうやらかなりの数の僕が住んでる。


寺山修司の【赤糸で縫いとじられた物語】の「数字のレミ」には、選択を迫られると、その選択肢の数だけレミが増えてしまうという話がある。

僕はまるでそれに近い。

先日、芸術家の人と話をした僕は、確かに僕なんだけど、僕じゃない。

多趣味ではあるから、芸術についても良く知っていることもある。
だからその時の僕は「芸術家(風)」の僕が出てくる。
好きな絵の思想を軸に僕は僕のエゴで対話する。

ふと芸術家の話が教育関係にとシフトする。

―これは僕に合わせて話がシフトしたのだろう。

するとぼくは芸術家(風)の僕の隣に「教育家」としての僕がいる。

だけど、身体自身の僕が声を出すと、芸術家(風)の僕と教育家の僕が混ざる時もある。
話の流れでそういう時もある。
だんだん教育の話に熱が上がってくると芸術家の僕がすすすーーと、脳のどこかに帰る。



僕の頭はある種のメルヘンだ。


哲学家なんてはるかに底なし沼だろうが、僕は一人ならず二人でも、とにかくこうしている時間がコーヒーブレイク並に楽しいのだ。

その時の思考を文字におこすこともまた楽しい。
時が過ぎて読み直す。

赤面する以外選択の余地はなさそうだが、
当時の僕が文字として存在している。

それを、時が過ぎたときの僕と出会う。


―なんというか、夢想家がどこまで幸せかよくわかると思う。


僕も夢想家の類の所があるけれど、それは「夢想家」の僕がいまこのブログを綴ってるに過ぎない。

山本くん(ガチャ)の豆本を持ってるだけ感想を述べよう

本の内容を一言で表す、かいつまんで話す、という行為は「教育」スキルをぐんと上げる絶好の練習になるかもしれない。

「教育」といえば些か格好つけた言い回しに聞こえるけれども、私はもっと広義に意味をとっている。

人生、他人になにも教えずに死ぬことは無い。否、寧ろ教え、また教えを受けることで歴史が続いている。

勿体ぶった話になってしまったけれども、私は教育を専門とする人生を歩んでいるのだから、人に言葉で伝える事に「簡潔で明瞭。面白く、惹きつけられるような能力」を兼ね備えた謂わば「言葉の魔術師」(←ひぐらしじゃない)を目指さなければならない。

―とまぁ、要は、何事も一言で上手な言葉を選んで話す能力は今後の人生に得しますよと言うことですね。
長く話したければその「核」がわかっているのだから、配置を考慮しながらシナリオを書けばいい。そんなところじゃないのだろうか。


はい。そんな私は前置きが長い。

本題は山本くんの豆本のレビューだ。

前回は青の本を紹介した。
今回は残りの二冊を何となくかいつまんで話したいと思う。

最初は赤い本でタイトルは【完璧な人生】
内容はタイトルからだいたい判ると思う。

主人公は夢のようなものを見てた。
ふと老人が出できて自身を「神を目指して千年近く生きた所謂神のたまごだ」という。
続いて老人は神の試練の一環としてどうやら主人公に力を授けるというのだ。

「今晩ミルクを一本飲むと人生思い通りになる」

そう言い残して消えた間際、主人公は大学のチャイムで目を覚ます。
夢だと思いながらもミルクを飲む決意をした主人公は人生何事もうまく行くのだが、、、

あらすじはこんな所。
このストーリーの面白いところは、
「地位と名誉」という所から始まる他者からの不満、、、、


ではない。
話の本当の面白いところは主人公が完璧な人生を謳歌して悔いなく死んだところで物凄く大きな貢献をしていたところなんだよ。


―にしても、この本クオリティ高くないか?
と改めて思った。
短いながらも面白味が詰まっていて、時間もかからないから何十遍もできる。

普通に面白いと思える。


―さて、ラストです。
まだ三冊しか持ってないのが残念でならん。
また見つけたらすぐコンプしてやろう。

ラストの話は緑の本。
タイトルが【月の出ない国】

舞台は真っ暗闇の中。
そこで起こる不可解な出来事。
その主人公はどうやら記憶が無いらしい。
暗闇の中では変な音やら揺れやら、、、

揺れと同時に自分にかすかに触れるようなものが近くにあると感じる。
日に日に自分に近くなってきているような感じがしているが、その壁のようなものは迫っていく、、、
だんだん自由が効かなくなってきた主人公はどうなるのか。

というもの。
この話はミステリーだ。
最も気に入ったのはタイトル。
幻想的世界観を初っ端から醸し出している。

この本の冒頭には他の本にない(たぶん)こんな一行がある。


【できるだけ明かりを暗くしてお読みください】

私もこれは可能ならそうした状況で読むべきだと思う。
この本にはある種の浪漫がある。

きっとシュルレアルな感覚を抱くだろう。

此処最近見た話の中でもとりわけ好きな部類になる。



―以上。
残りを手に入れたらまた話をしたい。

しかし、豆本、、、いいね。
俺も作りたい。

カプセル 手のひらの文学青年 山本くん 全5種セット